2005年05月29日

雑感 ~思いつくままに~

 健康被害の原因究明と不燃ごみ杉並中継所の稼動停止を求めて、被害者たちは「杉並病をなくす会」を結成した。公調委原因裁定の申請も活動の一つである。また「市民オンブズマン杉並」のメンバーとして、毎月の集会に出席し、記者会見や杉並区長との話し合いを重ねた。「市民政調」では国会議員、政府や自治体の役人と被害者、その関係者で市民政策円卓会議を度々開いた。

 全国組織の「化学物質過敏症患者の会」にも参加し、集会や政府交渉にも積極的に関わった。杉並病被害者として現在も続いている。また「健康被害者支援科学者グループ」は裁定後も独自の活動を続けている。公調委裁定後に発足した「杉並病をなくす市民連絡会」は杉並区に対し、ごみ減量、中継所廃止、杉並病救済を要望している。今後に期待したい。

 これという改善策を講じないまま「杉並病は終わった。中継所は安全」という区の宣言によって問題が持ち上がっている。杉並中継所と同じ規模、それ以上の規模の施設が各地で建設あるいは計画中のため、安全性をめぐって住民運動が起きている。第二、第三の杉並病を危惧しているのである。

 ノーベル平和賞受賞者ワンガリ・マータイ博士は「『もったいない』という言葉には、自然を尊敬する精神、有限な資源を効率的に活用する精神が含まれています」と語っている。生命の尊厳と環境の大切さを同次元でとらえ、自身の住居の周囲に植樹することから行動をおこし、世界平和と地球環境を展望した偉大な女史である。地域の問題が如何に大切か。私たちもいま一度考えてみたいと思う。

 奈良県桜井市で住民が気付かぬうちに、産業廃棄物の山が出現し、杉並病に似た被害者が出て、地下水の汚染から農作物の汚染の心配まである公害問題が起きた。年月が過ぎるにつれて関心が薄れることを案じた友は、古都の環境を守り、人々の心を目覚めさせようと、菜の花プロジェクトを立ち上げた。全国に広がっているネットワークである。春は一面の美しい花を楽しみ、蜂蜜をとり、種子から食用油を採る。廃油はバイオ燃料や洗剤にする。搾りかすは有機肥料になるという。
 産廃で汚れた地域を資源環境で豊かな故郷にという願いが込められている。山の辺の道に古(いにしえ)の豊かな心が花開いて、旅人も楽しませてくれるであろう。

 さて、解決には程遠い杉並病問題をかかえた中継所周辺では、人の心にどんな種子を播けばよいのだろうか。

2005年05月15日

杉並病は今も続いている

 不燃ごみ杉並中継所から被害を受け、小平での避難生活を経て、娘たちと練馬区で生活を始めてから3年が過ぎた。1996年の中継所の操業から9年の歳月が流れたことになる。公害等調整委員会の裁定があり、損害賠償の話があったにもかかわらず一向に事態は好転していない。今の住居は中継所から2kmしか離れていない割に、化学物質過敏症の身にとって許せる空気ではあるが、井草の状況が手に取るようにわかるのは悲しい。東風に乗って流れてくる汚染空気を感知して、井草森公園や周辺の植栽の手入れ、度々の運動場の芝刈りなど察してしまう。

 2003年に行った「杉並病をなくす市民連絡会」の健康調査によると、被害者の分布は中継所を中心に数を増し拡がっている。そして倦怠感や朦朧感、針に刺される感じなど、内科医の大谷先生が公害等調整委員会で証言されたような重症者の割合が高くなっている。その上10代の女性にまで鼻下や顎の鬚などの訴えがある。

 Sさんは雨が降る前の空気の重い日や気温の上がる時の外出を控えているが、やむを得ず外に出ると体中に木綿針が飛んでくる感じがして涙が溢れ出すと話す。ある人は自転車に乗っているとき、車を避けようとして混乱をおこし、逆にこちらから車にぶつかっていってしまったという。なんともやりきれない恐ろしい話である。多くの方が空気の悪さも感覚の異常にも気づいていないように思う。杉並病を考える学習会で「重症者の中には汚染空気を感じない人がいる」との講師の話が実感として伝わってきた。

 体がだるくてだるくて仕事もできず、病院の検査でもわからず、家人にも理解されずに亡くなった男性。具合が悪くても検査の結果は異常なし、何がなんだかわからぬまま、救急車も間に合わず亡くなった女性。肺が悪くて入院し、肺が白くなって病名もつかぬまま死亡した60代の女性2名など数え上げればきりがない。
 杉並病は転居しても即、治癒する性質の病気ではない。次から次と変わった症状が出てくるのが特徴でもある。肺の変性上皮細胞炎の診断を受けた私は、前向きに懸命に公害と闘うことで克服できたことを幸いに思う。

 Sさんは病んだ身体で季節ごとに植物の写真を取り続けている。自宅を開放しての写真展を見るに、樹木の傷みや汚染空気の流れが一目瞭然である。彼女は「植物の傷みの激しい所には必ず病人がいる」と言い切る。そして植物の葉や窓ガラス、家の外壁、塀などに小さなピカピカ光るものがいっぱい付着していることを不思議がっている。

 杉並病は終わったのではない。現在も空気の汚染が続いていることを認識し、一人ひとりが自覚しない限り、症状や事態は悪化し問題の解決は遠くなるばかりである。

2005年05月08日

損害賠償は貰っていない

 東京都が不燃ごみ杉並中継所を原因場所として、健康被害者に損害を賠償するとしたことが2度ある。しかし、だれも貰っていない。


1.健康被害の原因は排水の硫化水素

東京都は2000年3月31日に健康被害の原因は排水の硫化水素であると発表し、都知事は陳謝した。

(1) 2000年7月損害賠償決定。対象100人。総額3000万円。

(2) 2000年9月から11月まで損害賠償手続き受付。
・硫化水素による被害として1996年3月から8月までの発症者。
・下水道の影響ありとする限定地域。
・都は29人・杉並区は58人(対象外も含む)・練馬区は87人(対象外)に申請書類を郵送。

(3) 2001年1月、都は賠償請求手続きをした6名全員に、因果関係を認めず請求を退けた。

(4) 問題点―信用できない理由
・下水道の硫化水素を原因としながら、指定地域は下水道とかけ離れた地域も含まれている。
・指定地域以外にも申請書類が郵送されている。
・公調委の申請人は硫化水素原因説を否定しているため、誰ひとり申請手続きを行っていない。


2.健康被害の原因は中継所排出による化学物質

2002年6月に下った公害等調整委員会の裁定に従って決定した。

(1) 2002年11月、公調委で認められた申請人14人に申請書類を送付。14人以外の健康被害者に対しても申請書類の求めに応じた。
・1996年4月から同年8月までの発症者。
・指定地域を詳しく記載。硫化水素のときより練馬区に広げている。
・審査・賠償基準・請求方法など詳しく記載。

(2) 都の健康被害認定審査会は損害賠償を請求した1人に対し、因果関係を認めず請求を退けた。

(3) 問題点―信用できない理由
・ほとんどの被害者は指定期間が発症初期のため受診しなかったり、診断書を必要とも思わなかったため、医師の診断書・診療報酬明細など、揃えることは不可能である。
・症状の部位・症状例まで記載があるが、化学物質被害は広範な症状があり、しかも指定期間後に悪化しているのが大半である。
・公調委の申請人や他の被害者も、僅かな賠償額で根本的な問題が隠されてしまうことを恐れ請求しなかった。

2005年05月01日

公害等調整委員会の裁定

 2002年6月26日、審議が始まって5年を経て「公調委 杉並病における不燃ごみ中継施設健康被害原因裁定申請事件」の裁定が下った。分かりやすく書くと次の通りである。

1.健康被害の原因は中継所から排出される化学物質であると裁定が下ったものの、操業当初の1996年4月から同8月までの5ヶ月についてのみである。

2.申請人18人のうち14名のみ、中継所から排出の化学物質による健康被害を認められた。

 東京都は、健康被害の原因は、中継所の排水の硫化水素によるものであると主張してきたが退けられた。中継所周辺の健康被害の原因が中継所の排気による化学物質と認められたことで、大気汚染の公害裁判としては、一歩前進といえるかもしれない。しかし、操業開始の1996年4月から8月までの5ヶ月に制限したことは、どうしても腑におちない。どうも、一番大きな理由は、健康被害の届出が、この期間に集中し、9月からは減少しているということらしい。

 中継所を取巻く条件は何も変わっていないのに、被害がなくなる理由はない。「報告しても何も対処してくれない。プライバシーを守りたい。体の異常に気がつかない。転入者は被害の事実すら知らない。そのうえ過敏な人は早い時期に発症した。だから時間の経過と共に、分からなくなり届けない」という図式だ。

 本当に被害は治まったのであろうか。発症者は治癒したのであろうか。大気からの化学物質が体に侵入することは、そんな生易しいものではない。転出しても尚、化学物質被害を引きずっている人を何人も知っている。長年研究されている専門の先生方の話に耳を傾けるべきだと思う。

 終わりに裁定委員会の意見を書きとめておきたい。

 「化学物質の数は2千数百万にも達し、その圧倒的多数の物質については、毒性をはじめとする特性は未知の状態にあるといわれている。このような状態のもとにおいて、健康被害が特定の化学物質によるものとの主張、立証を厳格に求めようとすれば、それは不可能を強いることになると言わざるを得ない。本裁定は、原因物質の特定が出来ないケースにおいても、因果関係を肯定することができる場合があるとしたものであるが、今後、化学物質の解明が進展しこれが被害の救済に繋がることを強く期待するものである。」

2005年04月25日

住民による健康調査

 1996年の健康調査以来、「杉並病をなくす会」を中心に住民側は自分たちの手で、毎年アンケート調査を行っている。1999年杉並区の疫学調査と時を同じくして、8月に実行委員会を立ち上げ「健康被害アンケート調査」を実施した。不燃ごみ杉並中継所周辺500m内にアンケート用紙を配布し、353名の回答を得た。

 杉並区の疫学調査では「調査時1年未満では、健康被害は沈静化している」と結論づけたが、それとは裏腹に実行委員会が行った健康調査では深刻な状況が浮彫りになっている。殊に自由記述では、1人ひとり異なった発症経過が読み取れる。1年未満の発症者は20名以上あり、20歳代の女性の訴えが目立つ。杉並区の調査は30歳以上を対象にしているが、実行委員会は年齢に制限をしなかったため、30歳以下、10代や子どもの訴えまである。

 限られた調査票に書ききれないものも多く、世話人にいろいろと情報が入ってくる。その中から拾ってみることにする。

・顎に髭のある女性が複数あり、そのうち60歳代の1人は検査の結果、男性ホルモンが青年と同じくらいあった。その上、乳房が大きくなり若い女性のように張ってくるという。70歳過ぎの女性にもである。

・中継所に近い練馬区の女性は、操業当初の1996年夏ごろから具合が悪く、日を追って悪化した。医者は診断がつかず、救急車で運ばれて入院したが治らず、悪くなる一方だった。長年勤めた職場も定年を待たずに退職に追い込まれた。この頃になって、初めて杉並病のことを知ったのである。抱きかかえられて北里研究所病院で受診し、化学物質による重症の症状と診断されている。

・学生寮の寮母さんは流星を見ようと夜中すぎ、あわててソックスを片方だけはき、サンダルをつっかけて芝生の庭に出た。朝になって素足だった方だけ、赤くただれているのに気がついた。

アンケート調査の回答の中に、足裏の皮がむけるという記述がある。私も経験していたので、草むらに溜まった化学物質と体調の悪さを想像した。

 公害等調整委員会で証言された大谷育夫先生は、アンケート調査と被害者の問診から「咳・のどの痛み・目の異常をはじめとして長期に亘る疲労感の訴えや、繰り返す感冒様症候、足底部に針を刺されたような痛みのある者も多い。そして多くの人たちが訴えている症状をみると、中枢神経系・自律神経系・内分泌系・免疫系とすべての器官・臓器に影響があり、さらに精神状態にも重い影を落としている。これは通常の検査ではほとんど異常が出ないのが現状で、まさに化学物質の被害による症状と言える」と話している。
 
 自治体の手で、もっと個別に調査する必要があると痛切に感じた。

2005年04月17日

行政による調査

~井草森公園周辺環境問題に係る健康調査~

 1999年5月、杉並区は委員会を設け井草森公園周辺環境問題の疫学調査を行った。調査票を郵送し後日回収の形を取り、井草の比較対象地区として、永福・久我山・和田を選んだ。30代・40代・50代・60代、男女各100名、1地区800名、計3200名を無作為抽出した。回収率は72.5%である。

 同年9月疫学調査の結果が以下のように発表された。

(1) 3年から1年前(調査時から逆上って、つまり1996年操業時~1998年5月)の期間は、健康被害と杉並中継所との相関関係を認める。
(2) 1年未満(調査時の1年前から調査時まで、つまり1998年6月~1999年5月)については健康被害は沈静化している。

以上の結果を踏まえ、山田宏杉並区長は「徹底した原因究明が課題」と公表した。そして今後の区としての取り組みを計画したのである。
 
 実はこの調査結果には問題がある。割合(パーセンテージ)の算出方法が間違っていると言う専門家の指摘がある。正しい方法で計算すると (2) の1年未満も健康被害は治まっていない。現に今も健康被害者は増加し重症化している。「今はすでに健康被害は治まっている」という結果報告のために、被害者は現在も苦しみ続けているのである。


~杉並中継所周辺環境問題調査委員会~

 1999年11月、東京都は柳川会長以下会員12名で上記委員会を発足させた。杉並区からは保健所赤穂保所長(当時)が参加した。

 会に先立ち予備調査として都の職員が不燃ごみ杉並中継所周辺の被害を訴えている住民宅を訪問し聞き取り調査をすることになった。被害者たちは今度こそ救済対策を立てて頂けると期待した。ところが被害者宅を訪問した職員は「いつごろ臭ったか。日時は?どんな臭いだったか?」など臭気のことばかりで、健康状態についての質問は皆無だった。そして、どういうわけか地元の重症者宅へは足を運ぶこともなかった。

 委員会は4回(うち1回は非公開)開催され、最終の2000年3月31日に次の通り結果発表があった。

(1) 杉並中継所周辺の健康被害は、下水道に混入した有機物が腐敗して発生した硫化水素が原因である。
(2) 公園の添木に使ったクレオソート油も健康被害の要因である。

 開園2年も前に使ったクレオソート油原因説は論外として硫化水素については、損害賠償の項で述べたいと思う。いずれにしても石原東京都知事が陳謝したのは事実である。

 結果発表の翌日の2000年4月1日、杉並中継所は東京都から杉並区に移管された。

2005年04月10日

公害等調整委員会に関して

 不燃ごみ杉並中継所周辺の健康被害関係者18名は1997年5月、公害等調整委員会に原因裁定を申請し、7月に受理された。第一回審問の同年9月から、第20回2002年4月審理終結、6月裁定まで5年を要したのである。

 申請人本人の尋問は私も含め4名。1番早く身体の異変に気づいたTさんは、自身の受けた被害と共に、中継所周辺全体の被害について詳しく言及した。
 学生寮寮母Kさんは、寮生の咳込みがひどく、田舎に帰ると治まるが寮に戻ってくると、体調は悪化し咳も激しくなる。やむを得ず退寮していく学生が増えたことを涙ながらに訴えた。

 Sさんは中継所西出口付近で友人と立ち話をしているとき、排気塔方面から大きなふわふわしたグラスファイバーのようなものが飛んできて、見とれているうちに、その中にすっぽり入ってしまった。この後、咳が止まらなかったことを話した。それは固体だったか、ガス体だったかと何度も質問を受けたが「わかりません」と言った。Sさんの撮った写真の中に、大きな雲のような影のあるものが何枚もある。グラスファイバーの様なものとの関係はどうなのだろうか。

 参考人として専門家の証言が相次ぎ、眼科臨床研究の宮田先生、疫学の津田先生の話は、明快で心を揺さぶられた。内科医の大谷先生は夫人も被害者であり、被害者の聞き取り調査、健康アンケート調査の分析など、関連付けての話には説得力があった。

 杉並中継所に勤務して1年余りの東京都の職員は、参考人としての証言の中で、中継所の稼動状況を次のように述べた。
  朝   8時25分頃 - コンパクター始動 
       8時50分頃 - 作業開始
  夕方  3時30分頃 - 作業終了
       4時      - コンパクター機器停止
  コンテナ車は通常、朝8時30分、早ければ8時に搬出を始める。

 ところが機器停止後、中継所に1晩留め置かれたコンテナ車7、8台は早朝7時頃、守衛や職員の出勤以前に、数珠つなぎになって搬出する。そのときの空気の悪さは、ただごとではない。この現状をKさん、写真家のTさんなど幾人も目撃している。それに2004年秋の環境モニタリング調査で、初めて調査した場所で化学物質の異常に高い数値が検出されている。それでも行政側は基準値がないのだから、問題はないと言う。中継所の中は何も問題はないとして、汚れた空気をそのまま屋外に排出しているとすれば、許すことは出来ない。

 中継所西出口(コンテナ車搬出口)の前にある学生寮の寮母や寮生の健康被害、また植物の枯れや傷みの発生も当然と言える。この西出口は、排気塔・換気塔と併せて汚染物質の排出口であることは間違いないと思う。

2005年04月04日

健康被害者の周辺

 小平で6年もの間、杉並中継所問題に立ち向かい、自身の健康の建て直しを計った。泣いたり笑ったりの生活は60代半ばになった私の人生に大きな試練と宝ものをもたらした。

 小平駅近くに転居した被害者たちに、井草からも加わって「井草の空気と健康を考える会」(後の杉並病をなくす会)を立ち上げ、活動を開始し会を広げた。専門家や弁護士に相談し政治家にも会った。都と杉並区に陳情のため、署名運動に駆けた。「市民オンブズマン杉並」にも名を連ね、Tさんを中心に何度も手作り集会を開いた。そして被害の話を請われると、それぞれが出かけて実情を訴えたりもした。

 丁度このころは、マスコミの取材合戦が始まり、新聞の掲載、テレビの放映も続いた。井草で取材を終えて転居先に見えると、化学物質過敏症の私たちは、井草から取材を終えたスタッフの衣服や機材に付着してきた科学物質に反応して、必ず具合が悪くなってしまう。電車で井草付近を通過しても、被害を受けた空気を感知して、目や鼻・口の廻りがおかしくなり咳まで出るため、マスコミの人たちに「歩くセンサー」とか「人間センサー」とか言われた。「杉並病」という病名も、杉並中継所周辺でおきた健康被害に、マスコミが名付けたものである。

 不燃ごみ杉並中継所の稼動停止と健康被害の究明を求めて活動を始めると、思いがけない症状が起きるようになった。個人差はあるものの、血圧が上昇する・体温が上がったり下がったり・脈拍は早鐘のように打つ。下痢のため何度も途中下車してトイレに駆け込む。井草にいる被害者は方向感覚が狂い、自分のいる場所がわからなくなる。住民だけではなく、水道メーター検針の女性が同じところをぐるぐる廻って、次のところにいけないという話も度々耳にした。そういえば私も、上井草の銀行から出て来て自分がどこにいるのか分からず、しばらく立っていたことがあった。

 信じられないような本当の話で苦悩しながら、被害者は増加し、症状も重くなっていった。そんな状況の中で都の清掃部の担当課長のふたりは、新宿区民5名を前にして言い放った。
「あの人たちは政治的意図を持った井草森公園への反対運動集団である」
「過敏症は精神的要素の強い病気、集団ヒステリーにすぎない」

 花粉症の解明には20年も要した。大気汚染による化学物質過敏症の究明が進んだとき、どう責任をとるつもりなのだろうか。生まれた子どもが成人式を迎えてからでは遅すぎる。少子化といいながら化学物質過敏症で働けない人が増えるとどうするのだろうか。

2005年03月27日

健康不調は不燃ごみ杉並中継所が原因  ~1996年の日記より~

 6月19日午後、数十名が杉並中継所に押しかけた。6月中頃に配られた「都市の緑と環境の会」からの健康アンケート調査の内容を見て、体調不良の症状がぴったり当てはまり、自分だけの具合の悪さではないことがはっきりした。前日は頭が朦朧として戸袋の角に頭をぶつけ、左前頭部を3針縫合する怪我をしていたが、皆同じ考えらしく、日時を決めての集まりとなったのである。遅れて杉並区の職員も姿を見せた。

 会場で話を聞いているうちに、今まで感じたことのない薬品の焦げるような臭いがして、気分が悪くなり途中で逃げ帰った。後日、中継所から帰宅後、鼻水が止まらなくなったり、咳が続いたりした人が幾人もいたことを知った。

 中継所側は「小型車で収集してきた不燃ごみを搬入し、圧縮してコンテナ車に積み替えるだけの施設に何もおきるはずがない」というが、量にしてプラスチックが約74%もあるのだから、専門家は「摩擦によって化学反応を起こす」という。他にも、何かあるかもしれないと疑うのも当然であろう。

 具合が悪いと言う人たちと話し合ってみて、いろいろなことが分かった。鼻水や咳だけではない。私のように頭が朦朧として怪我をした人が多い。階段を上るのに、あげたはずの足が上がらず前につんのめる。降りる時も足がもつれて転がり落ちて骨折。感覚が狂って、持ったはずの煮えたぎった鍋を落として大やけど等々。私は夜になると胸が痛かった。呼吸も苦しかった。足ばかりではなく内臓までつった。前述の初めての健康アンケート調査の結果によると、回答の症状は多岐にわたり尋常ではなかった。

 6月下旬、だるくてだるくて、他人のような体をもてあましながら、これで最後になるかもしれないと高校のクラス会に出席した。山々に囲まれ、石垣で有名な篠山城に近い実家からすこし行くと、田園が広がり丹波盆地の風景が開ける。今まで何度来ても、当たり前と思っていたのに、空気のおいしさに驚いた。草いきれ、樹々の香りが頭の芯まで通る。本当においしい。かつては井草だって外出先からどんなに疲れて帰って来ても、井荻の駅に降り立つと、夏でもひんやりした空気が頬をなでて、ほっとしたものだった。いつの間にか、大切なものを忘れていたことに涙した。

 丹波から帰ると、一旦良くなっていた身体は、坂道を転がるように悪くなり、救急車で入院、一週間後の退院は井草のわが家ではなく萩山へ。そして小平へと移った。

2005年03月21日

異臭と浴槽の変色  ~1996年の日記より~

 5月22日。朝から雨が降った。日中は特に激しく降った。午後、雨上がりの公園南西角の周辺で強烈な異臭が発生。井草森公園に面した住宅2軒のホウロウ製の浴槽が、水を張った上側だけ茶色に変色した。外出先から帰宅した家人が通報して、警察や東京ガスが出動し大騒ぎになった。

 この住宅のある公園南西角は、杉並中継所方面から流れる下水管が分流する場所にある。一度に大量の雨が降ったため、下水管にたまったガスが配水管を通って溢れ出したのであろうということである。詳細は不明。

 それにしても、ごみ処理に使った汚水を、そのまま住宅地の生活排水の下水管に流していたとは驚きである。7月初旬の中継所の汚水の水質検査では、「本来出ないはず」という総水銀とPHが「下水排除基準値」を上回っていた。8月1日に下水道局の立ち入り検査を受け、13日には下水の排出をストップした。汚水は年度末の3月に汚水槽を改善するまで、バキュームカーで吸い取り処分場まで直接運ぶことになった。

 下水の問題だけでなく、ずさんな工事を、施設の他の箇所についても疑ってみたくなったのは私だけではあるまい。そしてこの浴槽の変色と強烈な異臭が起こったことで、東京都は、後に開かれた「杉並中継所周辺環境問題調査委員会」において、中継所周辺の健康被害を見当はずれの硫化水素説に導いていったと考えられる。

 この頃になると、住民の間で「中継所周辺の空気がおかしい」と囁かれ、中には訳も分からず具合が悪くなって、友人の家を転々としたり、ホテルに泊まったり、健康だった人が入退院を繰り返した例まである。

 6月19日には説明を求めて、杉並中継所に数十名が押しかけた。

杉並病 被害者

2005年03月13日

不燃ごみ中継所見学会  ~1996年の日記より~

 1月29日、公園の一角に建設された不燃ごみ中継基地(当時の呼称)の操業を始める前の見学・説明会に出席した。会場は地域や周辺の人たちであふれ、ごみ施設について関心の高さを感じた。担当者の話に「4月開園の公園に先立って、この施設は3月から稼動を始めます。環境と緑を重視して屋上は公園になっています」とあった。

 その言葉どおり、稼動実績を見ると、試運転の2月は搬入673.9トン、3月は2949.9トン、4月は2931.7トンとなっている。4月は年度始めとあって、公園の開園も中継所の操業開始も、公式には4月にしたのであろうか。実際は4月より3月のほうがごみの搬入トン数も多い。このことは後に、被害発生が意外に早かったことと関係があると思う。

 ガラス張りの機械制御室はとても清潔で、無知な私たちは「さすが技術の発達はすごい」とまで思った。操業前の作業場は、これからの作業の予測が、説明だけでは理解できないこともあって、何の違和感もなかった。屋上は見晴らしがよく、敷きつめられた芝生も美しかった。「よかった!」今まで心配していたことが嘘のように吹き飛んでしまった。

 本当は何も見聞きしていなかったに等しい。

 夢にも、半年後に呼吸困難のため緊急入院するなど、ましてや、中枢神経機能障害(化学物質過敏症)の診断を受け、井草に住めない体になるとは思ってもみなかった。

 1997年、初冬、わが家族は居住40年の杉並区井草から脱出した。

杉並病 被害者

2005年03月12日

杉並中継所とは

・井草森公園の西北の一角に、ごみ輸送車の台数を減らす目的で建設した地上1階、地下2階のごみ施設。

・収集車で集めた不燃ごみを圧縮して大型コンテナ車に積み替え、処理センターに輸送するための施設。

はじめに

 1996年4月に不燃ごみ杉並中継所が操業を始めてから9年にもなる。状況は現在も9年前とまったく変わっていない。変わったとすれば、下水設備を改善したこと換気塔にフィルターを付けたことぐらいだろうか。そして、地域の人の杉並病は終わったという安心感と、杉並病問題に対して無関心になったことである。その一方で、重症化していく被害者と転入者の中に新しく発症する人が出ていることを忘れてはならない。

 2000年10月、杉並区が事実上の安全宣言をし、2002年6月には公害等調整委員会において「中継所周辺の健康被害は中継所から排出の化学物質による」と因果関係を認められたものの、「現在は鎮静化している」という内容の裁定が下っている。このため、天気の良い日や休日には、隣接する井草森公園は多勢の人で賑わっている。私は心配で仕方がない。
 9年間、私の見てきたこと、聞いたこと、考えたこと、また被害者として体感したことを追ってみたいと思う。

杉並病 被害者